スポンサーサイト

--.--.-- (--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【編集】 |  --:-- |  スポンサー広告  | Top↑

アルコール依存と現実否認

2007.06.17 (Sun)
 交流分析家スタイナーによる分析。『アル中患者のゲームプレイ』(Games Alcoholics Play)という著書の中で、患者が主として演ずる“考えるな”(Don't think)という脚本について述べている。
 この本で紹介されている。

飲酒症―「アルコール中毒」の本態
田中 孝雄

飲酒症―「アルコール中毒」の本態
中央公論社 1986-05
売り上げランキング : 951324

おすすめ平均 star
starこういう視点も有るのだろうが

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

 こどもは両親とどうもうまくいかない自分に気づく。自分が気分よく振舞っていると問題を起こしてしまうのである。こどもは本当の自分がよい子でない(OKでない)ことに気づく。これを克服し、よい子である(OKである)ようにするため、彼は自分の人生のスタイル、つまり“脚本”を自分で採用する。その脚本の中で彼は親から来る“お前はよい子でない”というメッセージの効果を抹殺するように試みるのである。
 アル中患者にとって重要な脚本のテーマは“考えるな”ということであり、これは起きていることと主張することとの間に、明らかな相違がある家庭において生ずるのである。目ざといこどもがこの相違に気づいてそのことを指摘すると、“親のいうとおりにしなさい”とか、“自分のことをちゃんとやっていればいいの”とか、あるいは“生意気なことをいうんじゃない”と叱られてしまう。
 生き残るためには、彼は心に栓をするようなメカニズムを見つけ出す必要がある。それが“Don't think”であり、大人になってアル中になるということは、彼にとって“考えない”脚本のゲームプレイ(現実否認)を続けるための素晴らしい方法となるのである。


 この「現実否認」癖は、アルコール依存者の人生に深く浸透し、問題を増やしていく。でも、本人は問題に思っていない。散々それにより苦しんでいたとしても。問題の原因、問題に苦しめられている自分を「現実否認」するのだから。
 もちろん、自分がアルコール依存だということも現実否認する。「自分が酒に対して無力だ」と認めることが、アルコール依存からの脱却の第一歩だとする、いろいろな人の意見も納得できる。
スポンサーサイト
【編集】 |  15:54 |  過去を分析する─アダルトチルドレン  | トラックバック(0) | コメント(1) | Top↑

アルコール依存者にとっての“一杯”の酒の意味

2007.06.10 (Sun)
 アルコール依存症の進行と特徴は、簡単にまとめるとこのようになる。

〔アルコール依存症の進行と特徴〕
 機会飲酒
  ↓
 習慣飲酒
  ↓  ←関連身体疾患
 精神依存
  ↓
 身体依存
 ↓  ↓
死亡  コルサコフ病・認知症

 私は「精神依存」に入り込んでいた。今の断酒中の身体の変化を観察しても、「身体依存」まで行っていたとは思えない。「離脱症状」がほとんどなかったから。

 断酒中の私が気をつけなければならないのはスリップ(再飲酒)だ。一杯の酒が生死を分けるといっても過言じゃない。

 アルコール依存症という病気のもっともこわい点は、一杯の酒が常に死と隣り合わせにあるということです。この病気の基本症状は、“飲酒をコントロールする能力を失っている”ことです。
…(省略)…数ヶ月あるいは何年も断酒したからといって治る──上手に飲めるようになる──というものではありません。何年やめていても、一杯を口にすると八十%の人が三ヵ月以内にもとの状態にもどってしまうと言われています。
 したがって、完全に断酒し、その生活を障害続けていくことこそが“回復”ということになるのです。


 断酒会会員の入会当時のことを思い起こした次の話は、アルコール依存者にとって「一杯の酒」がどれだけ切望されているものかを物語っている。

「私はあのころ、すでに自分の人生を投げていました。妻の顔は鬼のように見えていたし、優しく励ましてくれる同僚の言葉も耳には入りませんでした。私を慰め、心を安らげてくれるものは、一杯の酒以外になにもありませんでした。ただ酒だけが私の人生だったのです。私にとって、酒だけが唯一価値のあるものだったのです。酔っているときだけが『私』でした。酔いがさめてきたときの、あのなんとも表現できない不安と倦怠感がおそろしくて、また次の一杯をあおっていました。はじめのころは、これではいかん、なんとか酒をやめなければという気持ちもありましたが、それも一瞬のことで、次の瞬間にはもう酒に手を出していました。いつのまにか、酒をやめることを諦めてしまっていました。死とか生とか、もうそんなことさえ考える力もありませんでした。酔うことさえできれば、そんなことはどうでもよくなっていたのです。・・・」


 友だちに、断酒していることを言うとよく言われることがある:「へえ、酒やめたんだ。でもさ、飲み会とかそういう時は飲むんだろ?! それくらいは平気だろ。健康にも害はないさ。堅いこと言うなよ」
 だが、私はその手には乗らない。私はただの酒飲みじゃない。“酒に精神的に依存していた”のだ。「一杯の酒」の重みが違うのだ。一杯じゃ済まないのだ。「付き合いが悪い」とか「ノリが悪い」とかそんな子と思われて仕方がない。そういうことを言う人と居酒屋に行くのはひどく危険だ。自分の命や心身の快適さの方が何十倍も大事だ。

【参考・引用】
こころをはぐぐむ―アルコール依存症と自助グループのちから
今道 裕之
4885920655
【編集】 |  10:39 |  アルコール依存を脱却しよう  | トラックバック(0) | コメント(0) | Top↑

“痔”が治った様子

2007.06.07 (Thu)
毎日晩酌をしていた頃はいつも軟便だった。
もともと胃腸は強くない。ちょっとアルコール度数の強いものや
多めに飲んだりすると、次の日は水のような下痢になった。

それでも、たまにちょっと硬い便が出るとすぐに肛門が切れた。
血が出て、肛門の内側に小さな出来物ができたりしていた。
病院にはいかなかったが、痔の軟膏で何とかごまかしていた。
薬で治してはしばらくして切れ、また直しては切れ・・・の繰り返し。

2ヶ月ちょっと過ぎて気がついた。
1.下痢をしなくなった。粘りのある(?)良い便が出るようになった。
2.以前より便に硬度があるにもかかわらず、肛門が切れない。

私だって、つい数年前は自分が痔になるなんて思ってもみなかった。
酒の常用で肛門付近の血行も悪くなっていたのかもしれない。
肛門の皮膚や筋肉に柔軟性がなかったし、出来物ができやすかったから。
かといって普段は下痢ばかり。すい臓も相当弱ってたに違いない。


胃腸の調子が良くなり、すっきり良い便が気持ちよく出ると、
気持ちも身体も晴れやかになる。断酒して良かった。。。
【編集】 |  08:40 |  日々を記録する─体調の変化  | トラックバック(0) | コメント(0) | Top↑

自分を“生け贄”にする癖

2007.06.03 (Sun)
 親の飲酒によって家族の誰かが困っていればそれは「問題飲酒者」。
 私の父親は今から思うとまさにこれだった。このような家族の中で育つ子どもは三重の苦しみを味わって育つのだそうだ。

依存症
信田 さよ子
4166601083

 第三の苦しみは、このような父と母が日常繰り広げるドラマの目撃者としての苦しみである。夫婦のいさかいは子どもにとって世界が割れる恐怖をもたらす。直接自分に向かう暴力は逃げたり避けたりすればいい。殴られた痛みも感じられる。しかし暴力の目撃者は暴力に対して無力なまま凍りついたように見ているしかない。目撃する子どもも虐待を受けているという主張がなされるのも、このような徹底した無力感にさらされる残酷さへの注目であろう。そしてアルコール家族の特色のひとつに、血を流すような夫婦のいさかいが翌日になると何事もなかったかのようにふたをされていくという処理の仕方がある。あのような争いがなぜ起き、どのように和解し、そのことで不安に震えた自分にどのような気遣いがされたかがまったく不明のままに放置される。意味不明の苦しみほど過酷なものはない。子どもはそのなかで苦しみに最終的意味づけをする。「ぼくが(私が)悪い子だから」と。このような子どもなりの最終的意味づけは、悪い子の自分がいるから親が苦しむ、こんな自分はこの世にいないほうがいいという根深い自己否定感に繋がっていく。



 この話も自分のことを聞かされているようだ。
 確かに、自分を取り巻く環境に対する「徹底した無力感」にさいなまれ続けて来た。自分にとって嫌な状況に陥っても、それを打開することはできないという、妙な感覚をいつも持っていた。嫌なことになってもそれを甘受するしかない。だから、何に対しても新しい環境に対しては、底知れぬ恐怖感を抱いた。
 そんなことしていると、いつの間にか自分が生け贄のような気がしてくる。悪い状況に陥ったら、それを切り抜けようと努力するのではなく、その状況に身をあえて置いて嫌な気分を味わうことが自分の使命のような気がしてくる。「マゾヒズム」に似てるけどちょっと違う。大昔の農民が、人間やら動物を捧げて、神に豊作を願う呪詛的な行動や感覚に近い。「ぼくが(私が)悪い子だから」と、身を捧げることで何か状況が好転すると思い込んでいるのだ。鬱病患者の典型的な思考法だと思う。
 社会人になってから、この考えは甘いことを思い知った。会社や上司は、特に民間企業においては、どんなに従業員である私をいじめたとしても、私が苦しむことを望んでいるわけではない。彼らが望んでいるのは「結果」、つまり“金”だ。どんなに私が身を捧げ苦しんでも、結果を出さない限り私を許してはくれない。そして私にとって衝撃的だったのは、売り上げ、金さえ稼げば、楽していいよ、ということを示唆されたことだった。この気づきは世の中の厳しさを知ると同時に、ある種の開放感をもたらした。私はそれまで「私が苦しんでいる姿を見せ付ければ、大人たちは私を許してくれる」と思っていて、それに基づいた行動をしていたのだ。しかし、そんな必要はないし、無意味だったのだ。
 「アルコール家族の特色のひとつに、血を流すような夫婦のいさかいが翌日になると何事もなかったかのようにふたをされていくという処理の仕方」も問題だ。アルコール依存者が飲んだくれて荒れたり、夫婦喧嘩を毎日のように繰り返すのには、家庭やその人間が根本的な問題を抱え、放置しているからだ。飲んだ夜は激しいいがみ合いをするが、翌朝にはけろっとしている。問題が解決された様相を呈する。しかし、問題は完全に未処理で放置されたままなのだ。喧嘩したいがために、問題を残していると思えるくらいだ。だから当然、また夜になると喧嘩が始まる。
 そして、怒りや問題への耐性が自分の中にできているのを感じた。「あれほど嫌な経験を毎日した自分だから、世の中でつらい目にあっても自分はがまんできる。自分は強いのだ」とこの経験を肯定的に捉えたりした。「この経験を生かし、社会に出ては我慢強さを発揮しよう」と。しかし、大事なのは我慢することではなく、何はともあれ原因となっている問題を解決することだ。我慢は二義的なものでしかない。
 ・・・などなど、「父と母が日常繰り広げるドラマの目撃者としての苦しみ」の後遺症は深く、長く長く続いたのでした。そして、未だにこれを乗り越えようともがいているのです。
【編集】 |  10:53 |  過去を分析する─アダルトチルドレン  | トラックバック(0) | コメント(0) | Top↑
 | HOME | 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。